見えないバトンを渡したい
廣瀬 昌由 ─ 国土交通技監インタビュー
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MLIT INTERVIEW / EXECUTIVE 02 ─ DATE 2026.04.24 / INTERVIEWER 佐藤 学 / DURATION 約 52 分
POINTS
- 東日本大震災後、宮城・閖上の保育園跡地に立ったとき、子供の声がするはずの場所に「風の音しかしなかった」。それが、入省37年目のいまも技監の原点として残っている。
- 能天気を自称しながら、見えないようにしている葛藤がある──「結構葛藤はあるんです」。その波も隠さず、6万人の地方現場の職員に差し出したい。
- 自分はアンカーじゃない。次の技術系トップにではなく、現場で踏ん張っている「あなた」に、手渡したい見えないバトンがある。
01. 祇園に連れて行ってやるから
Q. そもそも、国交省に入られた経緯は?
本当にたまたまなんですよ。
京都大学に行ったのも、大学入学共通一次試験──今のセンター試験の前身ですね──で、偶然いい点数が取れたからなんです。当時ちょうどアメリカンフットボールが流行っていて、京大に「ギャングスターズ」というチームがあった。アメフトやりたいなと思って京大を志望して、運良く受かって、実際にアメフトを始めました。
でも高校が男子校で、もうこの汗臭い世界を大学でもずっと続けるのはちょっと、と思って、3ヶ月で辞めてしまって。そこから先は、のほほんとした学生生活を送っていました。
長男坊なんですよね。親父は教師、おふくろは病院の事務員。周りから「まあちゃん、あんたも先生になるんやねえ」「お医者さんになったらどう?」と言われ続けて、僕はひねくれ坊主だったので、絶対その道だけは嫌やと思って、選んだのが土木でした。工学部の中では土木が比較的入りやすかった、というのもあります。
じゃあなぜ国家公務員試験を受けたのか。これが、大学の指導教官のひと言なんです。
「国家公務員試験に受かったら、祇園のお茶屋さんで芸子さんあげて宴会してやるから、受けてみろ」
もうちょっと変わった言い方でしたけどね。そう言われたら、そら受けてみた方がええかな、という話になって、受け始めました。そしたら偶然にもうまくいって、3年続けて受かった。1年目は100何番で、「そんな悪い成績では連れていけない」と言われ、2年目も少し上がったけどダメで、3年目でようやく連れて行ってもらったんです。
で、その先生が悪い先生でしてね。せっかく受かったからと連れて行ってもらったら、その日がちょうど節分か立春かで、芸子さんがみんなお歯黒の日だった。綺麗な芸子さんやと思ったら、みんな歯が真っ黒で、面白い先生のもとで学生生活を送りました。
僕はうまいことその先生にやられたのかもしれません。でも結果的に、そのご縁で今ここにいるわけで、その先生には感謝だと思います。入った頃の自分には、想像もつかない道を歩いてきたな、と本当に思います。
02. 口内炎ができて、物が食べられなくなった
Q. 若手時代に、いちばん不本意で、しんどかった時期はいつですか。
採用されて最初の配属が、土木研究所のダム研究室だったんです。
僕は、行政官として旧建設省に入ったつもりでした。中身はよくわかっていませんでしたけど、研究じゃなくて、行政の仕事がしたかった。それなのに最初は研究職で、しかも当時、建設省のなかでは道路系は本省に近い仕事をしていたのに、僕が入った河川系のダム研究室は、行政からはいちばん端っこの、研究色が濃いところだった。これはすごく苦痛でしたね。
同期で一緒に入った連中は、道路系の部署で行政に近い仕事をしている。こっちはそこからずいぶん離れたところにいる。正直に申し上げると、ここにストレスがあったのは、本当にしんどかったです。
その後、入省して5年目の頃、本省に係長として上がったんです。そこでまた、違う種類のしんどさが来ました。
ほんなら、誰も仕事を教えてくれへんし。
口の中に口内炎がいくつもできて、物が食べられなくなったことがあるんです。体重もかなり減ったと思います。後から思えば、当時の上司は別にいじめていたわけではなくて、「しっかり鍛えてやろう」という意識だったんだろうと思います。でも当時は、そんなふうには受け取れなかった。
助けてくれたのは、同じ係長クラスの仲間たちでした。「まあまあ」と言って飲みに連れていってくれたり、「違うことやろうぜ」と誘い出してくれたり。当時はまだ土曜日の午前中まで働いていた時代だったので、午後になると、かつて道路課にいらした大学の先生のところへ「こういう視点が大事だよ」と連れて行ってくれる先輩もいました。業務とは少し離れたところで、時間を持たせていただいた。今思えば、すごい感謝です。
Q. その2つの時期は、いま振り返るとどう受け止めていますか。
これ、ちょっと言い方に語弊があるかもしれないんですけれども──どちらのときのほうが自分は伸びたかなと考えると、土木研究所の、あの嫌だった最初のポストのほうが、伸びた気がするんです。
「これがやりたい」と思って就いたポストは、そのときは楽しかった覚えはあるけれども、今振り返ってみると、必ずしも好きな仕事が自分を伸ばしてくれたとは思わない、というのが正直な実感です。
たぶん、自分が「やりたい」と思っていることには、もともとある程度の知識や思い込みがあるんですよ。希望しないポストというのは、食わず嫌いなのか、本当に合わないのか、よくわかっていないまま避けているだけのことが多い。僕の場合は、ちょっと食わず嫌い感が強かった気がする。いや、食べたら美味しいやん、みたいな。軽いノリかもしれませんけれども。
組織ですから、全員が全員、希望どおりのポストにつけるわけではありません。でも、それぞれのポストの中で、「自分としては何を達成したいのか」「ここで何に前向きになれるのか」を考えていただくと、そのポストに自分なりの意味が見えてくることがある。
僕はちょっと能天気だったのが良かったのかもしれません。あんまり悲観的に考えなかったので、結果的に、その経験がぜんぶ血肉になってくれました。
03. 政令市で、堤防が決壊した日
Q. 若手時代で、いちばんやりがいを感じた仕事は?
平成12年、2000年の東海豪雨です。
愛知県を流れる庄内川と、その支川の新川が決壊して、政令指定都市である名古屋の市街地で大きな決壊が起きた。その復興計画をまとめた時のことが、若い時期でいちばん印象に残っています。ちょうど翌年の2001年1月に中央省庁再編で建設省が国交省になる、その過渡期でした。国交省になることが分かっている状態で、自治体の方々とどんな取り組みをしていくのかを決めていく──そういう時期の仕事でした。
実はその前、僕は木曽川上流工事事務所の調査課長をやっていたんです。そこは長良川河口堰という公共事業の象徴のような事業と、日本でいちばん大きい貯水量を持つ徳山ダムという、2つの大きな事業を抱えていて、大変な事務所でした。前任も前々任も、そのまま本局に上がっていくような、伝統と格式の河川局という感じのポストで、組織ががっちり固まっている。
その流れで中部地方整備局に異動したんですが、東海豪雨は、その「決まった道」から完全に外れた災害でした。
政令市名古屋で堤防が決壊する。誰も予期していないし、備えもしていない。初めての事態に放り出されたような感じで、前任者・前々任者から引き継いだ計画とは、まったく別のものが急にワッと起こった。そこで新しい治水計画を作っていかざるを得なくなった。
実務上の責任者だったので、責任も感じました。本当に非常にチャレンジでしたけれど、本省もすごく応援してくれた感覚があって、計画がまとまっていったときの達成感は強く残っています。
やりがいを感じるのは、ルーチンじゃない仕事です。同じ道を歩むところから少し外れたところで、突発的に自分が向き合わざるを得なくなった仕事。災害を受けた方々には本当に申し訳ないんですけれども、あの経験が、その後の僕にとってとても貴重なものになっているのは事実です。
04. 現場にしかない、風の冷たい音がある
Q. 国交省はずっと現場主義を掲げていますが、それはなぜですか。
僕らが作ったり整備したりするものは、結局は現場で機能するからです。
最近は遠隔臨場ができるようになって、バーチャルで現場が見える、検査も画面でできる、という時代になってきました。それはそれで大事です。ただ、そこに行かないと、見えてこない世界というのがあるんですよ。
現場に行くと、全体が見えます。自分が見たくないものも見える。匂いもするし、音も聞こえる。
冒頭で触れた閖上のことも、そうでした。東日本大震災の後、閖上地区に行くと、普段なら子供たちの声がしているだろう保育園の跡地があって、そこを歩いていたときに、風の冷たい音しか聞こえなかった。その音の記憶が、今もずっと残っています。
AIにカバーできないことは、まだたくさんあると思うんです。前に新聞で、東京都の教育委員会が「AIにできないことがあるのか」というキャッチコピーを出したのを見ました。面白いコピーだと思いましたけれど、インフラは地形や地質の条件が現場ごとに違うし、用地買収から完成まで多くの方にご協力いただいて、何年もかけて作り上げていくものです。新しい技術は積極的に入れていくべきですが、現場に足を置いた取り組みの重みは、そう簡単には置き換わらない。
そしてもう一つ大事なのが、総合力です。
調査から用地、工事、管理まで、一連のプロセスをみんなでつないでいく。部下と上司、本省と現場、技術系と事務系──こういう人的な総合力を発揮できるのが、国交省のいいところだと思うんです。僕はこのポストにつかせていただいたり、事務所長をやらせていただいたりするなかで、その強みをつくづく感じてきました。
現場力と総合力。その両方があるからこそ、国交省は国交省でいられるんだと、僕は本当に身をもって思っています。
05. 仲良しグループじゃなくていい
Q. 大きな組織だからこそ、本省と現場、局と局の間でフリクションに疲れる職員も多いと思います。
無駄なフリクションで疲弊してしまうのは、それはよくないですよね。
ただ一方で、公共事業というのは、享受される方々の中にもいろんな思いを持っている方がいます。我々の職員も、全員が同じ方向を向いているわけではなくて、いろんな価値観の人がいてこその組織です。その中で意見がぶつかるのは、当然のことだと思うんですよ。
僕自身が大事にしたいのは、仲良しグループではなくて、それぞれの司(つかさ)の人間が「何が必要か」をきちんと議論できる組織であることです。
セクショナリズムと言って、「自分のセクションだけが大事だ」という話になるのは、確かによくない。それは幹部職員も、課長クラスも、意識しないといけない。でも、セクションを大事にすることや、セクションの意見をきちんと言うこと自体は大事なんです。その上で、「目的があって、達成すべきことはそこで同じだ」という価値観が共有できれば、議論はいい方向に進んでいくはずだと、僕は信じています。
だから、一定程度のフリクションはあっていい。むしろ、摩擦することによって、エネルギーが出てくる。消耗戦としての摩擦はもちろん避けるべきですけれど、そういう健全な摩擦は、組織の中にあっていいんじゃないか、と。
一方で、「仲がいい組織」と「仲良し」は、ちょっと違うんですよね。事なかれ主義的な仲良しは、たぶん避けたほうがいい。自分が培ってきたこと、若い人なら素朴な疑問も含めて、きっちり議論して、それがいい方向に昇華していく──そういう関係のほうが、ずっと健全だと思うんです。
人は違うんですから、フリクションがあるのは当たり前なんです。それを無駄にしないように組織としてカバーする仕組みを考えるのは、幹部の仕事かもしれませんけれども。
06. 息子に、仕事の話をしてこなかった
Q. 最後に、ご家族にはお仕事の話をされていましたか。
これは、事前のインタビューでご質問いただいて、今日あらためて考えてきたんですけど──うちの子供たちには、国交省の話を、ほとんどしてこなかったんです。
うちの子供たちは、今、僕とはまったく違う仕事をしています。「それは不思議だね」と言われたこともあるんですけど、たぶんこれ、うちの親父とおふくろが僕にしたことと、同じことを僕が子供にしているんじゃないかなと、今になって思うんです。
最初に申し上げたとおり、僕の親父は教師、おふくろは病院の事務員で、「あんたも先生やねえ」「お医者さんやねえ」と周りに言われ続けて、強烈に反発して、全然違う道を選んだのが僕の始まりでした。子は親を凌駕するもんだ──自分自身、どこかでそう思っていたのかもしれません。
だから子供たちに、「お父さんはこんな仕事をやってるんだ」と、胸を張って語ってこなかった。親父は遅く帰ってきて酒臭いときがあって、土日は寝ている。「こんな仕事」という雰囲気で見られていたのかもしれません。本人たちに聞いたわけではないので、わかりませんけれども。
ただ、いま若い人たちを見ていると、もう少し、僕たちが何をやってきたのかを、きちんと発信しないといけないのかもしれないと思うようになりました。
若い頃、僕自身は、何も教えてくれない上司もいたし、それをもって今よしとするわけではない。やっぱり個人個人がどう育っていくかには、周辺環境が絶対に影響する。だからこそ、いま何を発信できるかを、最後の数年、もう一度しっかり考え直したいなと思っているところです。
07. 次の400メートルは、君が好きに走ればいい
Q. 最後に、若手へのメッセージをお願いします。
高度成長期、バブル崩壊、公共事業バッシング、道路バッシング、コメバッシング──いろんな時代を通ってきましたけれど、いまは少し、世の中から期待されている感じも戻ってきていると思うんです。そういう時代に若い人たちがやりがいを感じられる組織を作るのは、僕たちベテランの役割だと思っています。
国交省の強みは、多様性だと僕はずっと思っています。いろんなキャリア、いろんな専門性、いろんな職種の人たちがいて、それぞれが組み合わさって一つの事業を動かしている。研究でずっとやってきた人、行政でずっとやってきた人、その間を渡り歩いてきた人、技術系と事務系を行き来する人──そういう個人の多様性の集合体として、組織の多様性がある。それが国交省の強さだと、僕は信じています。
だから、聞いてくれている一人ひとりが、それぞれの個性を発揮しながら、国交省の中で少し輝いたり、少し新しく挑戦したり、少しもっと考えたり、ちょっと疲れたら休んだり──そういうことをしていける、体力があって、魅力があって、元気が出る国交省であればいいなと思います。
僕はアンカーではないので、バトンを渡す相手は、次の技術系トップだけじゃないんです。
今日ここにいる人たち、画面の向こうで見てくれている人たち一人ひとりに、見えないバトンが渡るぐらいの気持ちで、最後の数年を走りたい。
お前、次は400メートル走れ、でもいい。10メートルかもしれない。
好きに走ればいい。
そのぐらいの気持ちで、うまくバトンを渡せたら、ありがたいかなと思います。
※ 本プレビューは、制作チーム内での確認用です。肩書き表記(本記事では「技監」を暫定採用)、中部地方整備局時代の職名、各事業・施設名(長良川河口堰、徳山ダム、八ッ場ダム検証、閖上 ほか)の正式表記については、掲載前に秘書室へ照会のうえ確定します。掲載にあたっては廣瀬技監の事前確認を経て最終化します(予定)。
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